太兵衛のアンニュイな生活
とかくこの世は『太兵衛に武兵衛(多勢に無勢)』、「越後屋、お主も悪(わる)よのぅ」なんて出来事ばかりで、嗚呼..アンニュイな日々を送りたい。

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二つの矛先 ナショナリズム時代の幕開けか(仮)

日本型政治の終焉か


福田総理大臣は日本型政治システムの最後の総理大臣になるかもしれない。派閥重視といわれているが既にその影は薄い。今後日本の政治は徐々にラテン化しつつ、このまま極端な形で最悪の時代を想定し重ねてみると、ナショナリズムの高まりを中心に極左と極右が支配するテロル社会へと最終的な政治の形態を変えてしまう時代に行き着く可能性すら考えてしまう。
現在のところナショナリズムを強調する世代はある幅の若い世代と70代以上の戦中派だと思われるが、私の親世代にあたる現在のお年寄りの場合は、戦争の悲惨さを知っているという意味でやや趣きを異にする部分がある。一方若者の世代は失われた90年代に青春時代を過ごした世代で、国際化のあおりを受け日本社会の恩恵をあまり感じてこなかった人達にあたる。


日本の政治の変遷(90年代を中心に)


それが大きく変わる可能性がある。今後は日本の社会の中心を占めた中流世帯が没落をはじめて大きく二極化が進むからだ(※1)。これまで日本の中産階級はサイレントマジョリティーでありながら、政治的には過激な方向には進まない安定した保守中道路線を望んできた。
かつての冷戦時代、安保闘争の後も自民党対社会党は厳しい政治対決にあったが、民意を選挙での社会党というパラメータ(議員の増減)に着目することで、自民党内の右派、左派が政権のバランスを取るという安定志向にあった。ところが一党独裁で政党内の腐敗がひどくなり派閥抗争が激化して国民が嫌気を差したために野党側に大きく傾き、自民党が幾つか割れることで多数党による連立政権が誕生した。しかし、これもすぐに潰れてしまったために再び国民は嫌気を差して自民党に政権を戻した。
その間にも社会の疲弊が進み、既存の政治手法ではますますたちゆかないように思えてきた。そこに登場したのが小泉氏であり、彼はマスコミを上手く使って有権者の支持率を印籠代わりに派閥政治の弊害を抑えこんだかのようにみえた(実際は一つの派閥を潰しただけだが)。
ところが、このことは二つの弊害をもたらした。一つは支持率期待では一方通行な政策しか打ち出せないこと(矛盾したバランス政策はマスコミ受けが悪く国民には分かりにくいこと)、二つめには施政者の権化となった総理大臣には有権者の不満を逸らし注目を得るための材料が常に必要なことである。それでも小泉氏はバカ正直に手探りで事に当っていたのだと思う。そして偶然にもこの二つの弊害を一挙に解決する甘い蜜を発見した。それが過日の靖国参拝問題である。あの日、国民のほとんどが旗を振って中韓対日本の代表として小泉というプレーヤーを応援していた。安倍氏と麻生氏はその様子を伺っていたのだろう。


ナショナリズムという魔法


もともと右派の彼らにとって「ナショナリズム」という偉大な力の源泉を目の当たりにしたと思ったのかもしれない。前首相は、この機会にその力を手に入れ上手く利用して社会の価値観を国体中心にまで戻したいと考えたのだろう。
ところが意外な邪魔が入った。さすがの欧米も黙っていることは出来なかったわけだ。彼らはこれら一連の動きが最終的には新たなアジアでの紛争の火種になるとみた。アジアでの利益を損なうものだと判断したのだろう。同時に戦勝国である自国への挑発にもみえたのかもしれない。その上前首相は他の内政でも足をとられた。この決着をみる前に倒れこんでしまった。
そこに麻生氏が乗り込んできた。彼は安倍氏のやり方をもっと過激に「ナショナリズム」そのものを、まさしく国の中心に据えたいと考えているようにみえる。実体のないナショナリズムという亡霊の虜のようだ。彼は討論会で自虐史観という言葉を真っ先に取りあげて消えかけていた松明に再び火を灯した。また日本社会の危機をナショナリズムになぞられて正当性を訴え支持を得た。その過激な暴力性という本質の一面には触れずに、リップサービスなのか、信念なのかは分からないが、とにかくその暴走に歯止めをかける手段を政治家は出所から持ち合わせていないのに、いかなる関心も持ち合わせていないようにみえる。
彼はいずれ小泉・安倍以来の人気路線を復活し、政治を国民の手に取り戻すという大義名分で歓呼のもとに首相に迎えられるかもしれない。


ところで、実体がないと書いたが日本のナショナリズムには二つの鉾がある。一つは戦後一貫して強力な力を秘めたまま眠らされつつも欧米(西側)に向けられてきた左翼の矛、そして戦前に荒れ狂い戦後まで温存されアジアに向けられた右翼の矛である。いまその二つが同時に目覚めつつある。一方では経済混乱で二極化を招こうとする欧米型市場原理に対する極左の矛として、もう一方では中韓を激しく憎悪し危機感を募らせつつ、戦前の名誉回復で自尊心と誇りを取り戻すという名目の極右の矛として研ぐ準備をしているようにみえる。待ち望んだ新しい日本の出現である。
これからおきる社会・経済の衰退と憤懣やるせない取り残された多くの人間が、ご丁寧にも今の政治家が人気取りに使おうと育てようとしている熱狂的で過激に変容を遂げた新たな政治システムの中で、やがてこれらの矛をかざして暴力的・攻撃的な本性を剥き出しにすることになる日がくるかもしれない。そうなればアジアの平和は遥か遠のき、再び欧米の喉元に刃(やいば)を突きつける時代がくることになろう。もちろん、それで何かが解決するわけではない。だが悩むことはなくなるだろう。
日本の大企業?そうなってしまう前にとっくに海外に拠点を移してどこの国の企業か分からなくなっているだろう。



ナショナリズムは悪い面ばかりではないという人がいる。私もそう思う。欧米人にもそういう人が多い。面白いことに日本で欧米ナイズされた人が増えてきて、それに合わせるかのように欧米型ナショナリズムを近代日本の精神に重ねて叫ぶ人が多くなってきたのが、現在の日本社会のように私にはみえる。あたかもそれがナショナリズムの本質であるかのように喧伝している。昔から他国から影響を受けつつも(こう書くだけでも怒られる)、日本本来の和を重んじ相手を信頼し謙譲する精神などはほとんど廃れつつある。政治のラテン化とはそのことを指し、対決姿勢を強め、政治家が進め今起きつつある新たな社会と政治システムが疲弊する時には、いずれこのような極端な社会に行き着くのかもしれないと思う。


 


補足
まだ救われているとすれば、日本の政治は保守二大政党であるからだ。私は最近まで政界再編の保革二大政党の対立を望んでいたけれど、この頃の世相をみてこのまま双子の保守二大政党の方がいいのではないかと思えるようになってきた。保革二大政党がラジカルな思想を育てる土壌になり暴走するナショナリズムと結びつく危険性を思うと、政党内に右派・左派が分散・両立していた方がまだマシにみえる。
政権交代は政権運営や政権手法に抗議する場合に起こる方が健全な気もする。第一、政党イデオロギーに集約されてしまうと日本の場合は革新寄り政党に政権が永遠に回ってこない可能性もある。これでは昔の二の舞でしかない。


 


※1 全てはこれを前提に話を進めています。あくまで「もしも‥」という妄想 仮定の物語です。何となくもやもやとしてものを、下の記事を見て思いついたまま書いただけなので(仮)としました。今のところはまだそんなに心配はしていないし、杞憂に終わればいいと思っています。


 


自民党本部の外野席は敗者へ熱烈な「麻生コール」
http://www.news.janjan.jp/government/0709/0709232855/1.php


 

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