太兵衛のアンニュイな生活
とかくこの世は『太兵衛に武兵衛(多勢に無勢)』、「越後屋、お主も悪(わる)よのぅ」なんて出来事ばかりで、嗚呼..アンニュイな日々を送りたい。

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裁判員制度の問題点

死刑制度の踏絵


009年から裁判員制度が始まることになっている。
自民党から共産党までほとんど全ての政党が支持しているこの制度は、選挙権を持つ有権者が一定の刑事裁判の審理に参加するというものだ。なぜ政党や裁判所から検察、弁護士団体に至るまでほとんど多くの法律専門家がこの制度に賛成なのだろう。
彼らの主張を借りれば、こうした制度は既に多くの他の先進民主主義国家では当たり前のように存在しているのであり、弁護士会や人権団体に言わせれば主権民(有権者)としての権利意識の向上に役立つといい、国の立場から言わせれば権力の内在化と規範意識の向上に狙いがあるという。


そんな中で制度設計を担当した側から悲鳴に近い声があがっている。現状のまま裁判員制度が始まれば公正な判断に期待が持てないからだろう。


私は死刑制度にはやむを得ない面があると思っている。しかし現状で制度が導入されれば、いずれ死刑判決が連発するに決まっている。最初はためらうかもしれないが、一旦死刑判決の前例が出れば必ずそうなる。なぜなら裁判員制度は下級審のみで、いずれ上告されれば減刑になると当然予測されうるからだ。もちろん期待でしかない。結果、死刑で確定したとしても上級審で減刑を内心期待していたとはいえないだろう。死刑判決の正当性をことさら強く言い聞かせるに違いない。
しかるにいわゆる人権派や弁護士会などの議論を読むと、まるで理想主義か夢のようなお伽話を聞かされる。
憲法の理念も死刑執行に対する重みも社会的常識の上では理想的な判断には至らないのである。誰しも情に流されるし、先入観をもってしまうし、分かり易い議論があれば考えなど変わるものである。最近の弁護士の中にはそのような制度を見越してか、庶民の味方であるかのように名前を売っておこうとする者さえ現われているように思える。また自分で正しいかどうか判断できない場合、世間での事件に対する評価を基準に容易に左右されてしまう。社会的な期待に沿う結論を下そうとすることが正しいように思えることも出てきてしまうだろう。


例えばこんなことは起こりえないだろうか。2010年代からはデジタル放送が始まる。テレビは視聴者積極参加型の番組が多く作られ、中にはTVで極刑に相当するかアンケートをするかもしれない。そこに、ある裁判員が判決を下す前に(TVを見ることは禁止されていない)見たと想像してみよう。そこには世論という強力な圧力を感じるだろう。彼は自分の意志をそれでも貫き、被疑者の刑罰を軽くすることができるだろうか。


だが私が本当に心配するのはその先、一旦決めてしまえば社会的な責任を伴う以上、おいそれとは自分の下した判断や評価を裏切ることはしないことだ。たいがいはそのことについて自分なりに合理化しようとする。合目的に結論を理由付けすることによって、自らの判断に社会的意義を積極的に見出そうとするだろう。後から至らなかったと分かったとしても自省するより、やがてそれが自分流の見方(主義)として固定化していくだろう。それが社会的な影響を及ぼすような場であれば、その積み重ねの先にどのような事態が待ち受けているか。その危険性や認識について全く触れていないのである。
今やらねばチャンスがないなどという程度で、裁判員制度の導入にためらうべきではないなどとは、まるっきり改憲を急ぐ政治家のセリフと同じではないか。ならば、せめてその危険性の認識や啓蒙に全力を傾けるのが道理で、ただひたすら導入されるまでそっとやり過ごすようなやり方は首を傾げてしまう。



皮肉にも権力側の死刑判決に歯止めをかけるため(という人権弁護士)であった裁判官側の方が死刑を抑制する側にまわるかもしれない。上級裁判の弁護士や裁判官は減刑させて精神的に楽かもしれないが、世間的常識は国家の下で命の重さを定めることにも繋がりかねない。相手は被害者の命を虫けらのように奪った重罪犯である。その罪の大小を決めるということによって、命を奪うという法制度にそのものに対する疑念が生じるだろうか。恐らくそうはならずに、むしろ国家の下で命に対する価値観を定めることに繋がるだろう。



事件報道に配慮を 最高裁参事官が要請 マスコミ倫理懇 [朝日]
http://www.asahi.com/national/update/0927/TKY200709270661.html


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私は死刑制度が重罪犯罪の抑止力になるという考え方には納得していない。もし命を奪う刑罰として残酷さが抑止力になるというなら、公開処刑や残虐刑がより効果的ということになろう。四つ裂き、釜茹で、ギロチンなど方法は幾らでもある。昔から大衆にとっては処刑は悪人を吊るし上げ、日頃の憂さ晴らしの絶好の娯楽の一つであったという。
私は、死刑制度は被害者感情を満足させるためのものでしかないとは思う。率直に私も身近な人を殺されたりでもすれば、相手を嬲り殺しにしてから自分も自殺するかもしれない。だからそういう被害者の思いに真剣に向合い救済策を徹底して講じない限り、反対はできないというだけだ。


 


※他の記事では弁護士の方のブログを参考にしているのに、弁護士の方が読んで不快となるような書き方になっているとしたらお詫びします。

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